新潟の介護がよくわかる 総合ガイド2017

自己決定の解釈


今まで好き勝手にお年寄りの気持ちも踏まずに
業務に沿って動いてきたせいだろうか?
いまだにお年寄りの言葉に耳を傾けようとせず
強引にお年寄りを業務に巻き込んでいるからだろうか?

 

介護の基本はお年寄りの「自己決定」にある。

という言葉は、もはや耳にタコができるレベルですwww

 

自分のことは自分で決定する。

ごくごく当たり前の言葉だとは思うのですが…。

 

ここで介護の暴走が起こっているのも確か。

 

「トイレに行きたくない」
「風呂に入りたくない」
「起きたくない」
「一人になりたい」
「死にたい」

 

こう言われたとき、どう感じ、どう援助しますか?

 

さすがに「死にたい」気持ちを自己決定させて
殺してあげる介護さんはいないとは思いますが、

 

「トイレに行きたくないそうです」
「風呂に入らないって言ってました」
「寝かせててあげましょ」
「やっぱり一人になりたいよね」

 

って言う介護さんたちはたくさん存在するのでは…(泣)

 

もちろんこれをすべて否定するつもりはありません。
そういうときが必要なのは当然なことだから。

 

ただ、お年寄りが言ったことを自分なりに
都合よく解釈して楽をしようとしてはいないか?

 

お年寄りの自己決定(言葉)を武器に
すべき介護をしてないのではないか?

 

トイレ誘導には手間がかかるし
風呂に入らなければ業務に余裕ができる。
起きないって言われれば楽できるし
一人になりたいって言えば関わる必要もない。

 

もう一度言いますが、これらをすべて否定してはいません。

そこを誤解されると厳しいものがあるので…

 

尊重すべきはお年寄りの言葉だけではない。
自己決定とは、したいことをちゃんと
要求できる人間を前提にしたものである。

 

ところで、あなたは自分のしたいことを
ちゃんと言葉にして要求できますか。

 

僕みたいにシャイで引っ込み思案な人に限らず、
日本人(こういうと外国人さんには申し訳ないが)や
お年寄りは自ら物事を要求するってのは稀ではないか。

 

その遠まわしの表現を感じるのが介護の役割である。
その真意を推察し、ときに翻訳しなければならない。

 

トイレに行きたくないって普通のことなのか。
お風呂に入りたくないってのはどうしてなのか。
起きたくないって体調はどうなん?
一人になりたいなんてどんだけ寂しいんだよ。
死にたいんかい!

 

自己決定はもちろん大切である。
自分の人生は自分で決めるべきだと思います。

 

しかし老いや認知症によって何かの決断を正常に
判断できなくなってしまっているときに出した言葉を
「自己決定」という表現で片付けていいのだろうか?

 

大切なのは、正しい選択をできなくなった
お年寄りの本音や真意を感じること。

 

「○○したくないほど、辛い毎日だよ」
「○○したくないほど、体がつらいんだよ」
「○○したくないほど、つまらないんだよ」

 

そう思ってしまうお年寄りに対しては
一歩踏み込んでの「共同決定」も必要ではないか。

 

ときには僕たちは自分の思いを伝えるべき。

「こうあってほしい」と。

 

一緒になって考えていくこと。
真意を捉え一歩踏み込んでの援助。
負担のないように気を使う介助。
そこで心地よくなってもらうこと。
「あぁやってよかった」って思ってもらうこと。

 

それが味方になるということ。

 

その行動が、誰にも頼れなくなったお年寄りに
「あなたはかけがえのない存在である」という
メッセージとなって響いていくのではないだろうか。

 

お年寄りの真意の要求に沿っていたかどうかは、
何よりその本人の表情で分かるはずです。

 

介護短歌

言葉より
本音の部分に
耳を澄まし
ときに介護が
思いを伝えよ

 

ただあまり踏み込みすぎて人間関係を壊してはいけません。
それは今までやってきた失敗なのでそろそろ反省しましょう。

 

反省しつつ、一歩踏み込み寄り添っていけば
もっとお年寄りの笑顔が引き出せるはずです。


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