これは、もう消えてしまった私個人の介護に関するWebの中心テーマの一つで、自分の中では古いテーマではあります。しかし、現在ではあまりに「一方的」となっていて、もしかしたら今の若い人の中には「そんな考え方があるなんて知らなかった」とか「想像もできなかった」という感じの方もいらっしゃるかもしれないので、まとめておきます。
●活動理論とは?
あるサイトでは、このように説明されています。
社会学的側面から、老化をとらえた理論のひとつです。老年期でも中年期と同じように社会的関係を維持することができ、また高齢者自身も活動的でありたいと願っています。そのため、その社会的活動性を保ち続けることが、老化に対しても良い効果をもたらすと考えられます。
つまり、若い時と同じように。人間いつまでも成長・進歩・進化・改善を目指しましょう!また、それが「価値あること」なんです!という考え方です。今の『主流』ですね。行政施策的にも、一般の方々の価値観としても、です。近代的な社会のあり方として大前提となる価値観ですね。
でもまぁ、そうはいっても無限に前進し続けるなんてのは(個人ごとには)絶対不可能なことも間違いないわけです。今のところ、不老不死は実現していませんから誰もが最後には死ぬわけで。
●後退理論とは?
そういう活動理論に相対するのが後退理論と言われるもので、私自身がこの言葉を知ったのは、1986年、広島での三好春樹氏の勉強会でのことでした。そこで参考資料として配られた文章に出てきた言葉だったのです。「老人生活研究」という雑誌の昭和61年1月号の巻頭言として載った、当時「奈良女子大学教授」の「森 幹郎」という先生が書かれた『「実年」という言葉』という一文の中ででした。
全文転載するわけにはいきませんが、かいつまんで以下に紹介します。
若い人は「自分が年老いていく」ということを、具体的にはイメージできないようだ。そしてそれは、ある程度年取ってきた人にも共通の姿勢のようである。人は一般に「年取る」ということを拒否したい、忘れていたいという意識があるようである。「老いへの拒否」とも言ってよい。そして、老人というかわりに「熟年・実年」などの言葉がもてはやされている。「いつまでも充実して若々しくありたい。」という姿勢、これはいわゆる『活動理論』と言われるものである。
それに対し「老」という文字は、「年老いて腰曲がり、髪白く、その形貌の変わる」意味を表しているという。エジプトの象形文字でも老人を表す文字は「腰曲がり杖をついた人」の姿である。つまり「年をとる」ということは、だんだんと自立できなくなってくるものだということを教えてくれているのである。これは『後退理論』に通じている。つまり老いを生きるということは、振り返って人生の最も盛んな青・壮年の時代に目を向け、できるだけ青・壮年に近い姿で生きようと努力することではなく、そのような盛りの時期から段階的に離れ、そして死に接近していく時期である、ということを受容するものだ、ということである。
この2つの理論をめぐって1960年代のアメリカ老年学会では大論争が行なわれ、結果的には活動理論が多くの支持を得て、論争は終わった。一方、わが国ではそのような論争も行なわれず、活動理論が自明の理として通用している。
しかし、人は老いに向かって、もう一度この問題を考えてみなければならないのではないであろうか。若き日の私は活動理論の立場に強く立っていた。それは、ひろく老人に対する私の期待であり、また、『私の老後』に対する願いであったと言えよう。しかし今、私は自分の中で、その考え方がかわってきていることを隠さずに言っておかねばならない。
この文章に出会った後、リハビリテーション医療の専門家として教育を受けてきた私の中で、確実に何かが変わりました。いわゆる「自立を目指す」に一辺倒だった「価値観」から、とても柔軟な考え方ができるようになったと、自分で思います。
活動理論と後退理論、今は「どちらが正しいか?どちらが役に立つか?」という二者択一の思考をするつもりはありません。ただ、世の中には色んな価値観があるなぁ、ということを、心底実感できるようになった、とは思います。人間相手の仕事なのですから、「○○であらねばならない。」という思考は通用しきらない場面が往々にしてあるのではないでしょうか?医療や福祉に従事する人は、一般的にとても「道徳的・論理的」だと思います。でも、だからこその落とし穴に陥らないようにしたいと思います。
武久ご夫妻:なかなかアピール上手です
●武久さんのこと
で、今回はこういうことを書こうかな?と思っていた昨晩、FBお友達の武久さんのブログ『介護されし者~四肢麻痺中途障碍者の発信』更新のお知らせがタイムラインに届きまして、題名・テーマは以下のようなものでした。いや、本当に「シンクロニシティ」ってことはあるよなぁ、と思いました(^^; 私みたいに人ごととしてではなく、ご自身のこととしてこの辺りのことをつづられています。こんな職業者のブログとは「重み」が違いますね。末尾のみ、引用紹介させていただきます。
「老いに関しての観念」
http://blog.goo.ne.jp/takehisa-0yama-someyamachi/e/f6ffa0ff2831f843226edd3cb104a785
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人生、無事に老いれたという事は幸せなこと
こんな観点から出発すべき医療、介護、福祉などなのだろう、と僕は思う。
追記:僕の終わり方は妻の納得する終わり方でいい
延命治療しようが、自宅だろうが病院だろうが
長年連れ添った「夫婦の物語り」の終演、、、妻が納得する終わり方でいい
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私の先般のブログテーマ、「尊厳~尊厳死」ということについても明確なものを出されていますね。私個人としても「こうありたい」と思うご心情です。
あと、よろしければこちらも(ご本人からアピール!w)4分半弱のビデオです。これを、ただの諦め/諦観と呼ぶのはちょっと違うと思いますね。
https://www.youtube.com/watch?v=dHfN8VuGPQ4
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