日本尊厳死協会という団体があります。当時の名称は違ったようですが、設立は1976年と意外と古く、今も少しずつ参加者が増えているようです。これは何よりも、国民一人一人の権利意識の向上や自分の人生のあり方を自分自身でしっかりコントロールしたい、という個人意識の強まり、ということがあると思います。そのこと自体は良いことと思えるし、そういう意識のあり方を否定するものではありません。
ところで改めて「尊厳」とはどういうことでしょう?実はよく上がる話題?とも言えるのですが。尊厳という言葉を字引的に調べてみると、ある説明では以下のようになっています。
すべての個人が人間として有する人格を不可侵のものとし、これを相互に尊重する原理をいう。
ここで注目したいのは、「相互に尊重する」という部分です。尊厳とは自分自身が自尊心を保てている状態であり、自分自身が自尊心を保てるかどうか?は、他者の自分自身に対する態度、他者が自分自身にどういう態度で臨み(言葉は悪いですが)他者が自分自身をどう扱っているのか?という面が大きいと思います。つまり、尊厳とは「他者との関係において他者が守ってくれる」という側面があります。
もちろん、それが全てではありません。他者からどんなに理不尽な扱いを受けても矜持を失わず、凛とした態度でいる方は、自分自身の尊厳をできる限り自分自身で守っている状況といえます。しかし、そのためにはかなり強固な自我が必要とされるでしょう。
では、要介護状態のお年寄りや寝たきりの方々にとっての尊厳とはどういうこととなるでしょうか?これらの方々は一般に「弱者」と呼ばれます。「弱者」という言葉を使うこと自体、ノーマライゼーションの理念からするといかがなものか?とは思いますが、これらの方々は様々な面で「弱い」立場に置かれがちなことも否定できません。すっ飛ばして結論を書きますが、そういう方々の「尊厳」は、文字通り「他者が守る」『我々が守る』という事です。
この辺の問題について、筆者はもう20年も前に忘れがたいご家族様の言葉を聞いたことがあります。高齢の寝たきりのお母さまを介護している息子さんの言葉ですが、
ごみ?尊い仏さま?
このような(寝たきりの姿で)生き続けることに意味があるんだろうか?と悩んでもいましたが、ふと見ると、枕もとにお母さまが長年大事にしていた小さな木像の仏像が置いてある。その時、「なるほど」と思ったと。
つまりその小さな仏像は、実はただの薄汚れた木っ端切れに過ぎない、だけどお母さまが長年大事にしていたそのものだからこそ、尊い仏様なんだと。目の前の寝たきりになった母親も、自分自身が感謝の心を忘れずに精一杯(できる範囲で)大切に思い接する限りは、母の命は尊いものなんだ、と納得がいきました。